2012年09月19日

F1の安全性向上に捧げた生涯 ワトキンス博士逝く

 偉大な魂がこの世を去った。生涯をF1の、ひいてはモータースポーツの安全性向上にささげ、多くのドライバーたちから尊敬を受けたグランプリドクター、シド・ワトキンス博士が現地時間12日夜、英・ロンドンの病院で死去した。84歳の誕生日から6日後のことだった。F1界は深い悲しみに包まれ、多くの関係者が哀悼の意を示した。(只木信昭)
 ■真の偉人
 「きょう、モータースポーツ界は真の偉人を失った。彼はドライバーではかった。彼はエンジニアではなかった。彼はデザイナーではなかった。彼は医師であり、長年にわたって、F1を今日のように安全にするために誰よりも功績を残したといって間違いない。多くのドライバーや元ドライバーは彼の慎重かつ熟練の処置で命を救われた。また安全性は、今日のドライバーたちがあまり気にしないでいられるほど高いレベルへ、大きな進歩を遂げることができた」
 マクラーレン・チーム元代表のロン・デニス氏が、ワトキンス博士の訃報を受けて表した弔意の言葉だ。この言葉が、博士の功績を余すところなく表しているといえるだろう。
 博士は、普段は笑顔を忘れない温かい人柄である一方、こと安全問題に関しては決して譲らない“頑固者”であり、ドライバーやチーム関係者からは「プロフ(ハカセ)」と呼ばれ、慕われていた。
 元フェラーリ・チーム代表であるジャン・トッド国際自動車連盟(FIA)会長は「彼が、このスポーツに残した安全面での遺産に、われわれは常に感謝している」とコメントした。
 ■安全への戦い
 エリック・シドニー・ワトキンス、通称“シド”は1928年9月6日、英リバプールに生まれた。リバプール大医学部を卒業後は英陸軍の軍医としてアフリカに派遣され、帰国後は脳神経外科医として腕を磨いた。
 子供のころから車に興味を持っていた博士は、そのころからシルバーストーンやブランズハッチでレースの際の医師を務めるようになったという。
 62年には米ニューヨーク州のシラキュース大に勤務。近くのワトキンスグレン・サーキットでのレースでも医師を務め、当時、同サーキットで行われていたF1米国GPにも関与したという。帰国後はローヤル・オートモービル・クラブの医療委員となり、レースへの関与を強めていった。
 F1に本格的に関与するようになったのは78年。現在、F1運営会社(FIA)会長で“最高権力者”であるバーニー・エクレストン氏に誘われてからだ。当時、F1製造者協会(FOCA)会長で、すでに運営面の実力者だったエクレストン氏は博士に、当時はまだ存在しなかった常勤のグランプリドクターとなるよう要請。同年6月の第8戦・スウェーデンGPから、その任に就いた。
 そのころ、F1では毎年のように死亡事故が起きていた。ドライバーに限れば直近の5年で6人が死亡。77年の日本GP(富士)では、ジル・ビルヌーブ(カナダ)のマシンがコースから飛び出し、立ち入り禁止区域にいた警備員と観客の2人が死亡する事故も起きている。
 博士の着任から3カ月後に、またしても人命を失う事故が起きた。第14戦・イタリアGP。スタート直後の多重クラッシュで両足を複雑骨折したロニー・ピーターソン(スウェーデン)が収容先の病院で翌日朝に亡くなったのだ。この事故の際、博士は歯がゆい思いを経験した。
 クラッシュ発生直後、マシンから火が上がり、現場周辺は擱座した多くのマシンと炎、黒煙で、まるで戦場のようだった。警察は非常線を張って出入りを制限したが、どういうわけか救急車の到着が遅れに遅れ、専門誌の当時の記事によると事故現場に到着したのは発生から18分も経過した時点だったという。
 博士の著書『F1一瞬の死 F1専属医が見た生と死の軌跡』(邦題)によると、事故直後に現場に駆けつけようとした博士は、警察官に止められたという。コース上で直接作業する役員として登録されていなかったためだ。博士によると、当時はF1でも医療は現地任せで、“メディカルセンター”がテントという例もあったという。イタリアGPでも、ピーターソンが運ばれた救急医療センターにカメラマンが押し入り、博士の股間から撮影しようとして博士に蹴り出されたともいう。
 この事態を受けて博士はエクレストン氏に医療体制の充実を求め、麻酔医の常駐やメディカルカー、メディカルヘリの常備を要求した。この要求は次の米国東GPで、早速実現された。そして博士は毎GP、決勝スタート時にメディカルカーに乗車し、事故に即応できるようにマシンの後ろを1周走行するようになった。
 それが博士の、医療体制の充実、そしてコースやドライバー装備の安全性向上への戦いのスタートだった。
 ■F1界の赤ひげ
 その後も博士はエクレストン氏と協議を重ね、基準を満たしたメディカルセンターや、大きな病院に患者を運ぶためメディカルセンターに隣接したヘリパッドを設置することをF1開催サーキットの標準とするなど、数々の改善を進めていった。これはモータースポーツにおける一般的な安全基準となって、F1以外のレースでも採用されるようになっていく。博士の努力で世界中のサーキットが安全になっていったのだ。
 一方で医師としてジェームス・ハントやマーティン・ドネリー(ともに英国)、ゲルハルト・ベルガー(オーストリア)、ミカ・ハッキネン(フィンランド)ら多くのドライバーの命を直接救った。
 82年カナダGPでスタート直後に起きたクラッシュでは、リカルド・パレッティ(イタリア)を救うことはできなかったが、燃え上がる車両から自らの手に火が燃え移るのもかまわずパレッティを救い出そうとした姿が、ドライバーやチーム関係者から尊敬を勝ち得た。この事故以後、11シーズンにわたり死亡事故が起きなかったこともあって、85年にはドライバーたちから、こう書かれたトロフィーを贈られている。「ハカセへ、あなたのかけがえのないF1への貢献に感謝して。あなたがいてくれてよかった」
 ネルソン・ピケ(ブラジル)とのエピソードも、博士の人柄を表すものだ。
 87年、当時ウィリアムズ・ホンダで自身3度目の王座獲得のチャンスにあったピケは第2戦・サンマリノGPの金曜日にコンクリート壁に激突する大クラッシュを起こした。全身打撲と一時的な記憶喪失状態で、博士はピケに出場停止を言い渡す。だがピケは病院を抜け出し出場を嘆願する。かつて事故で負傷したドライバーが病院から戻ってレースに出ることは少なからずあったのだ。
 『私は「頭を打っており、脳にダメージを受けている可能性がある」と言った。彼がないと言うので、私は「じゃあ、どこで靴を片足、置き忘れてきたのかね」と言った。彼は片足にしか履いていなかったのだ。彼は足が腫れて痛いので脱いだのだと言った。私は「脳のダメージと足のダメージに違いはない。君は運転できる状態ではない」と言った。彼は私の肩をつかんで泣き叫び、出場を願ったが、私はバーニー(エクレストン氏)に言った。「もしネルソンを車に乗せるなら、私はサーキットを去る」』(前掲書より)
 この出場停止にもかかわらず、この年の王座に就いたピケは後に、その年は最後までクラッシュのせいで調子が優れなかったことを認めている。
 ■救えなかった命
 数々の命を救った博士だが、救えなかった命もある。パレッティしかり、その3戦前のベルギーGPで亡くなったビルヌーブもそうだった。
 パレッティの死から11年11カ月後。F1は「最悪の週末」を迎える。94年第3戦・サンマリノGPである。
 金曜の走行でマシンが宙に浮き上がったルーベンス・バリケロ(ブラジル)は、そのまま金網に激突し、意識を失う。すぐに救出されて、比較的軽傷で済んだが、これは悲劇の前奏曲だった。
 翌日の予選でローランド・ラッツェンベルガー(オーストリア)がコンクリート壁に激突、収容先の病院で死亡した。
 さらに、暗い囲気に包まれた中で行われた翌日の決勝。3度の王座に就いたアイルトン・セナ(ブラジル)がタンブレロ・コーナーでコースを離れ、側壁に激突してしまった。博士の懸命の処置にもかかわらず、セナはヘリコプターで搬送された先の病院で死亡が確認された。
 博士とセナは、非常に仲のよい友人だった。そして博士はセナとの最後のやりとりを前掲書で紹介している。
 ラッツェンベルガーの死で極端に気落ちしているセナに、博士はこう、声をかけた。
 「君はもう3度も世界チャンピオンになったし、間違いなく最速のドライバーじゃないか。ほかに何がいるんだね。すべてやめて、釣りにでも行こう」
 セナは答えた。「シド、世の中には自分でコントロールできないこともあるんだ。やめることはできない。続けるしかないんだ」。それが博士が聞いた、最後のセナの言葉だった。
 この事故の後、F1界は安全性向上のため、数々の施策を実施した。博士も医師の立場からHANS(頭頸部保護具)の導入など、さらなる安全性向上に努めた。セナの死以降、18年以上にわたってドライバーが死亡する事故が起きていないのは、博士が進めた安全性向上の成果にほかならない。あの日、クラッシュしたバリケロは、博士の訃報に、こうツウィートしている。「あのとき、僕の命を救ってくれたのはシドだ。素晴らしい人で、一緒にいるといつも楽しかった。あなたがわれわれドライバーにしてくれた、すべてのことに感謝する」
 博士は記している。「今でもよく、アイルトンのことを考えるし、よく彼の夢を見る。私の人生には多くの影響を及ぼした人物がいる。それは父であり、脳医学者として指導してくれた人であり、セナだ。彼らをよく夢に見る。それは嫌なものだ。夢の中で彼らは生きて元気なのに、目覚めるともう一度、彼らが亡くなった事実に直面することになるからだ」
 ■かけがえのない存在
 その功績から数々の表彰を受けた博士は、2005年のシーズンを前にサーキットの現場から退き、08年にはFIAのモータースポーツ安全学会の会長からも引退していた。博士をこの世界に引き入れたエクレストン氏は訃報を受け、こうコメントした。
 「F1の安全におけるシド・ワトキンスが残した功績は計り知れないものだ。彼は生涯をささげて、可能な限りの安全を実現した。われわれは話し合い、ともに汗を流した。彼は私がなんの知識も持たなかった医療に関してすべてをやってくれた」
 「間違いなく、彼はかけがえのない存在だった。彼のような手腕を持った人間には、生涯に一度しか出会えないだろう」

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posted by FerraristaMASSA at 21:51 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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