2012年09月19日

不屈の魂示したザナルディ 瀕死の重傷から金メダル

 9日に閉幕したロンドン・パラリンピックで、モータースポーツに深く関わりのある人物が素晴らしい活躍を見せ、多くの人々に感動を与えた。その道のりは、人生に苦しむ人々すべてへの、心強い励ましになるものだった。(只木信昭)
 ■思い出の地で金メダル
 9月5日、ロンドンから36キロ南東にあるブランズハッチ・サーキット。45歳のイタリア人が金メダルを首にかけ、感無量の表情で話した。「これは、私の人生でも最も素晴らしい業績の一つだ」。パラリンピックの自転車ロード競技、下肢切断者によるハンドサイクルのタイムトライアル(運動機能障害H4)で優勝したアレッサンドロ・ザナルディ。元F1ドライバーであり、米最高峰CARTチャンプカー・シリーズで2度の王座に輝いた、あのアレックスである。
 「20歳ならメダルを喜ぶが、40歳にもなれば、毎日やってきたことの成果に喜びを感じる。毎日のトレーニングを楽しんできた、魔法のような旅は最高の結末を迎えた。45歳で、こんな経験ができるのは素晴らしいが、同時にこれが冒険の終わりかと思うと寂しさも感じる」
 ザナルディにとってブランズハッチは、F1へ上がる前の1991年、国際F3000時代にコース記録も刻んでいる思い出のサーキットだ。そこでザナルディは、自らが設計、製作した炭素繊維製の競技用自転車で16キロを24分50秒22で走破。2位に実に27秒もの差をつけて圧勝した。ここで表彰台に上がったのは3度目であり、真ん中は初めて。「エンジンがついていたときは、こんなに坂がきついとは感じなかった。とてもきつかったが、美しいコースだ。自分のような“老人”にはピッタリだね」
 ■新大陸で才能開花
 ザナルディがF1に昇格したのは91年シーズン終盤。そこから94年まで25戦に出走(ほかに予選落ち2度)し、最高位は6位入賞1度。性能と信頼性に劣る車に苦しみ、無理をしてクラッシュをして「壊し屋」という、ありがたくないあだ名ももらった。
 才能が花開いたのは米国に戦いの場を移してから。96年、当時、米最高峰のフォーミュラカー・レースだったCARTチャンプカー・シリーズに、トップチームのチップガナシから参戦し、2年目の97年から2年連続で王座を獲得してみせた。
 その翌年、99年にウィリアムズからF1に復帰したが、ちょうどウィリアムズが低迷期にあったこともあって再び苦しみ、最高位は母国・イタリアGPでの7位(当時の入賞は6位まで)。失意のまま、1年で契約を解除した。
 1年のブランクの後、2001年に再びCARTに参戦。この年、悲劇が起こった。
 ■一命を取り留める
 01年9月15日、ドイツ・ラウジッツリンク。大会は初めから暗雲に包まれていた。4日前に起きた米中枢同時テロのショックは世界を覆っていた。主催者は当初、レース中止も検討したが、「われわれは走ることに決めた。それが最善の対応だと考えたんだ。人類はテロよりも強く、悲劇を克服できる偉大な可能性があるということを示すために、前に進むことが大事だとね」。ザナルディは振り返る。
 マシンからスポンサーロゴを外し、代わりに星条旗を張りつけることでレースは行われることに。ところが今度は強い雨に見舞われた。F1など欧州のレースと違い、時速300キロ以上でオーバルコースを走る米オープンホイールカーレースでは、雨が降ったら走れない。それがスタート数時間前に奇跡のように雨が上がり、レースは始まりを迎える。ザナルディは「多くのことが本当に変だった。いつもとは違っていた」という。
 トップ争いを演じ、最後のピット作業も順調に終えたザナルディ。残り16周。ところが加速レーンからコースに合流するところで「コントロールを失った。加速レーンに戻ろうとしたがレーシングラインのど真ん中に止まってしまったんだ。そして後続の1台目は避けてくれたが、2台目はダメだった」
 アレックス・タグリアーニ(カナダ)のマシンは時速320キロでザナルディのマシンの側面に激突した。
 「車は2つに分かれた。一方には私の体があり、私の脚が残っていたもう一方は、“アリベデルチ(サヨナラ)”と、違う方向へ離れていった」。ザナルディは苦笑いしながら語る。
 すぐに救出されたものの、ヘリコプターで140キロ離れたベルリンの病院に運ばれたときには、血液の4分の3が失われていたという。「神父から臨終の儀式も施されたんだ。(そこから一命を取り留めたのは)言葉を探すなら、最も近いのは“奇跡”だろう。もっとも、私は奇跡ではなく(医療スタッフなど)奇跡のような人々からの素晴らしい贈り物だと思っている」とザナルディはいう。
 ■リハビリへの意欲
 回復後のザナルディは、義足でのリハビリに積極的だった。「もともと私は、自分が乗る車のメカニズムに触れるのが好きだったんだ。チームのメカニックたちが触らせてくれることもあれば、触らせてくれないこともあったけどね。だから義足がどんなふうに動くのかとか、自分にどういうふうに合わせるかとかを知りたくて、ベルリンの病院を退院するのが待ち遠しかったんだ」
 やがて自分で義足や車いすを設計し製作するようになった。ある夏、まだ小さかった息子のニコル君から泳ぎに行きたいとせがまれたときは、プールに入れるように、レーシングカーの燃料タンクに使われている素材を利用して義足カバーを作ったという。「子供の無邪気さってやつは、父親が車いすでプールに行くことの気まずさを理解してくれない…」と苦笑いしつつも、「自分自身を守りたかったが、同時に息子を楽しませたかった」。このとき作ったものは、今では義足利用者に一般的に使用されているという。
 ザナルディがレースの世界に戻ったのは、事故からわずか1年半後だった。03年5月11日、あのラウジッツリンクで特別仕様のチャンプカー・マシンに乗り込み、あの日のレースの残り周回を走った。その年から特別仕様のツーリングカーでレースに参加し、翌年からはBMWで欧州ツーリングカー選手権に参戦。翌05年に世界ツーリングカー選手権(WTCC)に昇格したシリーズで09年に引退するまで、計4勝を挙げている。06年にはBMWの誘いで、当時のBMWザウバーによる特別仕様のF1で走行もしている。
 一方、ハンドサイクルでの競技に出場し始めたのは、WTCCで活躍していたころだった。07年、ニューヨークマラソンのハンドサイクル部門に、わずか4週間のトレーニングで出場し4位に入賞。以降、今年のロンドン・パラリンピックでイタリア代表に選ばれることを目指してトレーニングを重ね、10年ローマ・シティーマラソンの同部門で優勝。昨年はニューヨークマラソンを4度目の挑戦で初めて制していた。もちろん競技車両は自分で設計、製作した。この製作においては、モータースポーツ時代の人脈が生かされているという。
 ■金2、銀1を獲得
 念願だったパラリンピックの金メダルを獲得したザナルディは、7日のロードレースで2個目の金メダルを獲得。8日のH4混成リレーでは、イタリアチームの一員として銀メダル獲得に貢献し、「言葉もない」と喜んだ。「個人で勝つのも素晴らしいが、チームとして勝つのはもっといい。チーム全員がすべての力を筋肉から絞り出して得た結果はとてつもないものだ」
 こうしたザナルディの活躍をかつての仲間はたたえる。
 「アレックスがすることに、私はもう驚かないんだ。彼は素晴らしい人間だし、本当のレーサーだ」というのは、CART時代のチームオーナー、チップ・ガナシ氏。「彼がウチのチームの一員として才能を発揮したことを、われわれはみんな知っているが、今回は世界中に不屈の魂を示した。私は過去に、アレックスと多くの勝利をともにする幸運を得たが、今回ほど誇らしく感じたことはない」
 WTCC時代にBMWでチームメートだったアンディ・プリオール(英国)は「彼は素晴らしい同僚で、コースでは手ごわいライバルだった。彼は挑戦を愛し、不可能を可能にしてきたから、パラリンピックを目指していると知ったときから、やると思っていたよ」という。
 ■誰かが何かを感じてくれれば…
 ザナルディはロイター通信のインタビューで、こんな話を告白している。ベトナム戦争で負傷し下半身不随になった主人公をトム・クルーズが演じた映画「7月4日に生まれて」を、かつて鑑賞したときの感想だ。
 当時健常者だったザナルディは、「自分があんな状態になったらどうしよう」と考えたのだという。「答えは『すぐに自殺する』だった。でも(クラッシュの後)8日間の昏睡(こんすい)状態から目覚め、本当にそうなったと気づいたとき、そんな考えは浮かんでこなかった」
 なぜパラリンピックを目指すのか。その質問には、こう答えている。
 欧州経済危機で苦境にある母国で、多くのビジネスマンが自殺していることにふれ、「国がこういう厳しい状況に直面している中で、私の活動で誰かが何かを感じてくれれば、私は喜ぶだけでなく、感動するだろう。私の身に何が起きたかを知ることで、その人が日常生活で何かいいことを見つけ、あるいは何かを人生に付け加える機会になってくれれば…」。
 ■4年後を目指す?
 大会前にザナルディは、45歳という年齢から、これが最初で最後のパラリンピックだと考えていた。「パラリンピックの代表に選ばれたということは、生涯、友人や孫に語って聞かせることになるだろうね。孫ができればの話だけど。『いいかい、じいちゃんはロンドンへ行って、あんなことやこんなことをやったんだ』なんて、いつか話したいもんだ」。そんなことも口にしていた。
 実際、パラリンピックで戦ったライバルたちのほとんどは、彼よりはるかに若かった。だがタイムトライアルで2位になったノベルト・モサンドル(ドイツ)はザナルディより6歳上。この事実は、ザナルディ自身に何かを感じさせたのかもしれない。
 来年、世界最大のレース「インディ500」への出場も取り沙汰されている金メダリストは、こう話す。
 「息子を学校に送り迎えするとか、そういう日常生活に戻るのは素晴らしいことだろうね。でももし、もう一度花火に火をつける機会があるならひいたりはしない。チャンスを逃すのはもったいない」。ガナシ氏が話すとおり、今も変わらず「本当のレーサー」であるようだ。
 次回のパラリンピックは16年、リオデジャネイロである。
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チンホワ「僕にくれたチャンスに心から感謝」
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posted by FerraristaMASSA at 21:46 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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